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2024.08.28

オペラ『カルメン』見どころをご紹介します。

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家田 淳(演出家・洗足学園音楽大学准教授)

求め合い傷つけ合う男と女の物語を、アイグル・アクメトチナが魅せる!

昨年のロイヤル・オペラ・ハウス・シネマ「セビリアの理髪師」で主役ロジーナを歌って魅了したアイグル・アクメトチナが、ついにカルメンで登場する。

アクメトチナ(実際の発音は「アクメチナ」に近い)は、カルメン役でまさにオペラ界を席巻中の新生スター。去年から今年にかけては、メトの新制作「カルメン」に出演したほか、ベルリン・ドイツ・オペラ、バイエルン州立歌劇場に登場、今後もグラインドボーン音楽祭、アレーナ・ディ・ヴェローナ他で同役を歌う予定で、世界の主要歌劇場・音楽祭で次世代のカルメン旋風が吹いている。

現在若干28歳のアクメトチナは、ロシア・バシコルトスタン共和国の小さな村の出身で、幼い頃から歌が得意。「歌手のアイグル」と呼ばれて育ち、ポップス歌手を夢見る少女だった。オペラに目覚めたのは14歳の頃だったが、田舎町の暮らしゆえ、実際に歌手になれるとは思っていなかったという。転機は19歳の時。師匠の強い勧めで出場したロシアの国際コンクールで、ロイヤル・オペラ・ハウス(以下ROH)の養成所ジェットパーカー・ヤングアーティスツ・プログラムの所長に見出され、同プログラムのオーディションを受けて見事入所を果たしたのだ。

ROHのヤングアーティスツ・プログラムはオペラ界最高峰の養成機関で、世界中から毎年数千人の応募がある中、入所できるのは歌手5名、指揮者、ピアニスト、演出家各1名のみ。2年間のプログラムで、演技、各国言語などのコーチングを受けながら、本舞台に小さい役で出演できる。筆者は「歌手の演技訓練法」を学ぶための研修先にこの機関を選び、2014年に半年間、非正規メンバーとして各種クラスに参加したが、オペラに関わるあらゆる側面を実践的に学べる非常に充実したプログラムだった。

メンバーはある程度プロとしての経験がある20代後半から30代前半のアーティストが中心で、アクメトチナの20歳での入所は異例中の異例。そしてプログラム在籍2年目、ROH本舞台の「カルメン」に主役のカバーとして参加していたところ、本役の歌手が降板し、いきなり主役デビューを果たして話題をさらったのである。たった21歳でカルメンを歌うのは、ROHの長い歴史における最年少記録だった。

さて、アクメトチナはどんな歌手か? まず、聴く者を体ごと包み込み、圧倒的な快感を与える声。天性のチャーミングなオーラ。加えて、技術と直感を組み合わせた、リアルで繊細な演技力がある。ROHのプログラムで学んだだけあり、彼女は持ち前のカリスマだけで押し切ることはしない。同じ役を何度歌っても演技がありきたりにならないよう、稽古場では演出家とやりとりを深め、役の心理をつかみ、プロダクションごとに新たなカルメン像を造形すると語っている。その上で、天性の勘で本番に臨む。「カルメン役に限っては、事前に計算ができない。もちろん演出の決まり事は守るが、その日、その瞬間に自分がどうなるかは、やってみるまでわからない。舞台に立ったらカルメンとして生きる」。これは理想的なオペラ歌手のあり方ではないだろうか。毎回がスリリングな舞台になること、間違いなしである。

インタビューで垣間見える彼女の人柄は、気さくで謙虚。芸術を通じて社会をより良い場所にし、将来的には若手アーティストをサポートする財団を設立する夢も語っている。来年はカルメン以外の様々な役にも挑戦するとのこと。そんなアクメトチナが今後どんな風に羽ばたいていくのか、目が離せない。

最後に、演出について少し。「カルメン」は時代設定を変えても違和感の少ない作品で、近年は現代に設定を移して観客に親近感を持たせつつ社会の闇を描き出す演出が多い。メトのプロダクション(こちらもホセはベチャワだった)はアメリカの軍需工場に舞台を置き、暴力と搾取にさらされる女性たちに焦点を当てたが、今回のダミアーノ・ミキエレットの演出は現代でももう少し抽象的な設定にすることで、この物語の普遍性が際立つようになっている。1970年代、南スペインの荒涼とした「どこか」。舞台上は殺伐とした屋外の空間と、幕によって警察の詰所になったりナイトクラブになったりする小さな小屋。盆を効果的に使ってこのシンプルなセットにさまざまな角度を与えつつも、空気感は閉鎖的。重く暑苦しい気候の中、文化も娯楽もない土地に閉じ込められた軍人たちと女たちは、必然的にお互いを求め合い、牙を剥いて傷つけ合う。1幕で弱い者いじめをする子どもの集団は、大人社会の縮図のよう。また、「ホセの母親」を黙役として登場させ、ホセの深層心理に潜む暗い影を暗示させているのも興味深い。この設定の中でアクメトチナとベチャワがどのような新しい表情を見せるか、ぜひご覧いただきたい。

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2024.06.10

バレエ『白鳥の湖』見どころをご紹介します。

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森菜穂美(舞踊評論家)

クラシック・バレエの中でも、最も人気の高い作品が『白鳥の湖』である。チャイコフスキーの壮麗でドラマティックな旋律、一糸乱れぬ白鳥たちの群舞、そして白鳥オデットと黒鳥オディールを一人のバレリーナが演じ分ける趣向により、クラシック・バレエの代名詞となり、日本でも最も多く上演されているバレエ作品である。

2018年5月に英国ロイヤル・バレエは、弱冠31歳のリアム・スカーレット振付による新しい『白鳥の湖』を初演した。スカーレットはロイヤル・バレエのダンサーだった24歳の時に振り付けた『アスフォデルの花畑』が英国批評家協会賞に輝いて天才の出現と大きな話題を呼んだ。2016年には初の全幕作品『フランケンシュタイン』がシネマでも上映された。切り裂きジャックの物語をバレエ化した『スイート・ヴァイオレット』、『ヘンゼルとグレーテル』、『フランケンシュタイン』、そして1940年代のマンハッタンを舞台にした『不安の時代』など、スカーレットの作品は現代性とダークな世界観が特徴的で、その傾向は『白鳥の湖』にも表れている。
マリウス・プティパの生誕100周年を記念し、これまで上演されていたアンソニー・ダウエル版に代わり、30年ぶりに新しい『白鳥の湖』が製作されることになった。飛ぶ鳥を落とす勢いの若き天才スカーレットに白羽の矢が当たり、『アスフォデルの花畑』『スイート・ヴァイオレット』そして『フランケンシュタイン』でもスカーレットとコラボレーションしたジョン・マクファーレンが美術を手掛けることになった。

スカーレットは、白鳥たちの群れが幻想的に舞う2幕は現在世界中で上演されている『白鳥の湖』のベースであるプティパ/イワーノフ版(1895年)に忠実な振付としたが、1幕、3幕、4幕には変更を加えた。悪魔ロットバルトは女王の側近に扮して玉座を狙い、パ・ド・トロワを踊るのはジークフリートの姉妹と、王子と特別な絆で結ばれている友人ベンノという設定が斬新だ。3幕のナポリの踊りのみ、ダウエル版にも採用されていたアシュトンの振付を引き継いだ。4幕は全くのオリジナルの振付で、”死“に魅せられ2021年に35歳で早世したスカーレットらしい荘厳な悲劇に仕上げた。辛口の英国の批評家たちにも絶賛されたこのプロダクションは、3度目のリバイバルを迎えても圧倒的な人気を誇り、発売されるや否や全公演のチケットが売り切れた。

2024年4月24日に収録された今回のシネマでは、ロイヤル・バレエの新時代トッププリンシパルの二人、ヤスミン・ナグディとマシュー・ボールが主演。昨シーズンの『眠れる森の美女』や、2019年の『ロミオとジュリエット』など、シネマでこの二人の主演が上演される機会も多く、至高のパートナーシップを築いてきたペアだ。共演を重ねてきた二人だけに、自然な演技とぴったりと息が合ったサポートが見事で、当代最高レベルのパフォーマンスで酔わせてくれる。

長い手脚による繊細でたおやかな表現、磨き抜かれ安定した高度な技巧にドラマティックさも備えた知性派ナグディは、凛と気高く悲劇的な白鳥の王女オデット、自信に満ちて魅惑的な黒鳥オディールという全く違った二つのキャラクターを好演。3幕クライマックスの32回転のグラン・フェッテは3回転も入れて強靭かつエレガントで音楽性にも優れた踊りで魅せる。腕の動きで呪われた運命を語るマイムの美しさも特筆ものだ。愁いを秘めた表情が絵になり、優雅な身のこなしと端正な容姿の英国貴公子ボールは、高い跳躍や高速回転など超絶技巧を披露して王子の情熱も見せる。最終幕での、愛し合いながらも結ばれない運命を嘆き慟哭するパ・ド・ドゥ(デュエット)の、二人の卓越した表現力を昇華させた痛切なドラマ性が胸を打ち、涙せずにはいられない。

怪僧ラスプーチンのような妖しげな女王の側近実は悪魔ロットバルトを怪演するのは、渋くセクシーな演技派トーマス・ホワイトヘッド。マシュー・ボール、そしてトーマス・ホワイトヘッドは、共にマシュー・ボーンの名作『白鳥の湖』で男性の白鳥であるザ・スワンを演じたという共通点がある。

ジークフリート王子の親友ベンノは、軽やかで高い跳躍と美しいプロポーションの韓国出身の注目若手ダンサー、ジョンヒョク・ジュンが演じている。前田紗江、桂千理が花嫁候補である王女たちを魅力的に演じるなど日本出身のダンサーたちも随所で活躍している。もちろん、白鳥たちの一糸乱れない美しさを保ちながら、フォーメーションを次々と変化させていくコール・ド・バレエ(群舞)は、大きな見どころだ。

幕間の解説映像では、リアム・スカーレット亡き後彼の作品の振付指導を行っている元プリンシパルのラウラ・モレ―ラや、主演のナグディ、ボールのインタビューとリハーサルシーンに加えて、白鳥のチュチュが熟達した職人たちの手で製作される過程のドキュメンタリーや、ジョン・マクファーレンによる舞台美術の解説と盛りだくさんの内容で、作品の理解を深めることができる。リハーサルでは、ロイヤル・バレエ専属ピアニストの川口春霞の姿も見られる。今回の新進気鋭の指揮者マーティン・ゲオルギエフによるチャイコフスキーの不朽のメロディについての解説も興味深い。

ジョン・マクファーレンによる黒とゴールドを多用し、重厚にして絢爛たる舞台美術もこの版の大きな魅力である。宮廷の中庭で展開される王子の誕生日祝いのパーティには村人はおらず、洗練された貴族社会であることが強調されている。荘重な大階段、黄金に輝く壁や玉座が象徴的な3幕の舞踏会の華麗な舞台美術には思わず息を呑む。古典作品を現代的にアップデートし、英国バレエ伝統の演劇性を強調した演出のこの『白鳥の湖』は、あまたある『白鳥の湖』のなかでも傑作の誉れ高く、世界最高のバレエ団である英国ロイヤル・バレエが総力を結集しているスカーレット版を、現地ロンドンに行かなくても観られる臨場感あふれる映画館の大画面で、ぜひ満喫してほしい。

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2024.06.03

オペラ『蝶々夫人』見どころをご紹介します。

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田里光平(NBS/公益財団法人日本舞台芸術振興会)

※英国ロイヤル・オペラの日本公演を主催

日本人にとって特別なオペラ『蝶々夫人』

『蝶々夫人』は日本人にとって特別なオペラだ。現在世界の歌劇場で恒常的に上演されているオペラの作品数は60~70と言われているが、その中で唯一、日本を舞台にした作品であり、日本文化がどのように舞台で表現されるか、その演出に向けられる日本人の目は厳しい。そして、今なお日本各地に残る米軍基地のことを考えると、このオペラが現代まで続いている物語であることに想いを馳せずにはいられない。
残念なことに海外の歌劇場では日本文化への理解を欠いた演出も多く、それゆえにメジャーな作品でありながら、国内の団体以外で本作を観る機会は皆無という状況だった。そんな日本の状況に変化をもたらしたのが今回の英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズンによる『蝶々夫人』の上映ではないだろうか。プッチーニの生み出した甘美で流麗な旋律は背筋が震えるほど美しく、一流の歌劇場、アーティストによる上演は、音楽の洪水にひたる喜びを体感させてくれる。
そして美しい音楽とともに、今回のモッシュ・ライザー、パトリス・コーリエの演出による舞台は、私たち日本人の観客に“安心”を与えてくれる舞台である。英国ロイヤル・オペラでは今回の再演に際し、日本人スタッフを投入。日本人からみても違和感のない舞台になるようにアップデートを重ねてきた。
歴史的背景が確立されているオペラを演出するのは非常に難しい。時代考証を綿密にすると、時として古臭い印象を与えてしまうこともある。さらにSNSが普及し、早いテンポや展開になれた現代人の感覚にも耐えうるものにしなければ観客の支持を得ることは難しくなってくる。
今回の上演では単純に明治時代を再現するのではなく、伝統的でありながらどこか現代性を感じさせる要素が随所に織り込まれている。蝶々さんのまとう婚礼の白無垢も、スズキの質素な着物も、いわゆる“着物”とは少し違うデザインで、素材も異なっている。装置や照明とあわせて考え抜かれた衣裳の色使いも美しい。障子にみたてた白い背景幕を簾のように上下させることでテンポよく場面を変えつつ、違和感なく場面が日本であることを表現する。少しの工夫で観客に与える印象を変えられることを示した好例といえるだろう。

最高の歌手による、誇り高く美しい蝶々さん

プッチーニのオペラは歌手にとっては過酷な作品ばかりだ。中でも蝶々さんは“ソプラノ殺し”と言われることもある難役で、15歳の可憐な少女という設定のために柔らかで繊細な音色が求められる役柄。大編成のオーケストラを突き抜ける声で、かつ繊細な表現をすることは非常に難しい。しかも全編をとおしてほぼ出ずっぱりで歌わねばならず、体力的にも負荷の大きな役である。
そんな難しいプッチーニのオペラを得意とし、今回の上映において音楽的成功を牽引しているのがアスミク・グリゴリアン。ザルツブルク音楽祭の『サロメ』の成功で一躍世界の檜舞台に躍り出たこの若き歌手は、他の歌手にはない圧倒的な存在感と個性を放つ。一度彼女の舞台に接したならば、その舞台は観客にとって長く記憶に残るものとなるだろう。
グリゴリアンは「プッチーニは感情を音楽で表現する名人」と語る。持ち前の強靱かつしなやかな声は役柄によって様々な色彩を帯び、彼女が演じるとオペラのヒロインが血のかよった人物となり、舞台がより生き生きと輝く。声だけでも主人公の心情を観客に伝えきる力をもち、さらに高い演技力まで兼ね備えている稀有な歌手である。
そして「音楽を通して私自身の物語を表現している」と、常に独自の解釈を探求するディーヴァは受け身のヒロインにはとどまらない。彼女の演じる蝶々さんは自らの強い意志を感じさせる。特に2幕の終盤から3幕の幕開きにかけ、一人舞台に正座し、じっと宙をみつめるグリゴリアンの姿は、歌わずして蝶々さんの孤独とかすかな希望、さらには武家の娘であるという誇りを感じさせ、終幕の自死を予感させる。まさに本公演の白眉といえる場面である。なお、そんなグリゴリアンのチャーミングな素顔が見られるのはシネマならではの嬉しさ。リハーサルでドラゴンボールのTシャツを着ている姿には思わず笑顔がこぼれる。

こうして言葉を尽くしてみたところで、『蝶々夫人』というオペラやアスミク・グリゴリアンという歌手の魅力を十分に伝えることはできない。オペラはやはり劇場で体験する芸術であり、生の演奏や歌声に触れないとその真の魅力は伝わらない。まだオペラに触れたことがない方はまずはシネマから、そして生の舞台へと少しずつその世界を広げていただければ、きっと新たな喜びを感じてもらえるのではないだろうか。総合芸術と言われるオペラには数百年にわたって受け継がれてきた豊かな土壌が備わっているのだから。

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