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2026.07.02

『魔笛』見どころをご紹介します

コラム

石川了(ジャーナリスト/音楽・映画・ミュージカルナビゲーター)

18世紀の作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと宮廷作曲家アントニオ・サリエリの確執を描いた映画『アマデウス』で、映画の終盤、『魔笛』と『レクイエム』の作曲が同時並行で行われていくシーンを覚えているだろうか。
サリエリ扮する死神に依頼された『レクイエム』の作曲に夢中になるモーツァルト。そんな彼に、興行主で台本作家のエマヌエル・シカネーダーが「おまえには気取った宮廷は向かない。観客が喜ぶ奇想天外な作品を作れ。観客にウケそうな曲も数曲入れて」と『魔笛』の作曲を依頼する。魔笛小屋でのドンチャン騒ぎのなかで名旋律が生み出され、妻コンスタンツェの口うるさい母親が夜の女王に結びついていく。原作の舞台『アマデウス』の作者ピーター・シェーファーが自ら脚色した映画ならではのアイデアが見事であった。
この映画からもわかるように、モーツァルト最晩年の舞台作品『魔笛』は、宮廷向けの高尚な「オペラ」ではなく、一般大衆向けの「歌芝居」として作られた。これはジングシュピール(Singspiel)と呼ばれ、歌だけで綴られるオペラとは異なり、台詞と歌で物語が進行する。今でいうミュージカルのようなものといえるだろう。

『英国ロイヤル・バレエ&オペラ in シネマ 2025/26』の『魔笛』は、この「歌芝居」の魅力が存分に堪能できる映像だ。2003年のプレミエ以来、今なおロンドンっ子に愛され続ける演出は、スコットランド出身の演出家デイヴィッド・マクヴィカーによるもの。闇と光の世界の美しいコントラストのなかで、ダンサーが操る「ライオン・キング」のような動物たちがうごめき、魔法の鈴の音が鳴ると、善き者も悪しき者も思わず笑顔になって踊り出す。
大人から子どもまで、クラシック音楽ファンはもちろん、映画や演劇、ミュージカル好きなど、誰もが楽しめる笑いとユーモアにあふれた作品だ。

ストーリーは、王子タミーノが夜の女王に頼まれて、ザラストロにさらわれた彼女の娘パミーナを鳥刺しパパゲーノとともに救出に向かう。魔法の笛に導かれて彼らが辿り着いたのはザラストロの神殿。実はザラストロは太陽を讃える賢者であり、この神殿でタミーノとパミーナは試練を乗り越え、光の世界で結ばれる。
大蛇が登場したり、魔法の笛や魔法の鈴がタミーノとパパゲーノの危機を救ったりと、映画『アマデウス』でシカネーダーがモーツァルトに語ったように、奇想天外な冒険物語が「観客にウケそうな」楽曲の連続で展開する。タミーノがパミーナの絵姿を見て恋に落ちる「なんと美しい絵姿」、パパゲーノが登場する「私は鳥刺し」、ザラストロが歌う「この聖なる殿堂では」、パミーナの悲しみのアリア「愛の喜びは露と消え」、そしてこのオペラで最も有名な夜の女王のアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」など、誰もが一度は耳にしたことがある名曲が満載だ。
また、二重唱や三重唱、五重唱のような美しいハーモニーによる声楽アンサンブルも魅力。夜の女王の3人の侍女によるソプラノとメゾ・ソプラノ、アルトの女声三重唱や、彼女たちにタミーノ(テノール)とパパゲーノ(バリトン)を加えた混声五重唱、パミーナとパパゲーノによるソプラノとバリトンの二重唱、3人の童子の児童三重唱、神官たちの男声合唱「おおイシスとオシリスの神よ」、二人の神官がオクターブユニゾンで歌うテノールとバスの男声二重唱など、大衆に向けてヒットを狙う、ある意味筒美京平的なモーツァルトのメロディーメーカーぶりも認識できる。

このように、『魔笛』の出演者には、ソロとアンサンブルの両方の歌唱力と、コメディとシリアスの両方がこなせる演技力、そして芝居としての明快な台詞回しも求められる。この映像では、歌手たちの台詞と歌声のトーンが同じなので、喋り声がいきなり歌声に変わるといった違和感もなく、台詞から歌唱への移行が非常にスムーズ。彼らの歌と演技による物語の流れがとても自然なのだ。
タミーノのアミタイ・パティはサモア出身のニュージーランド人テノール。パミーナのルーシー・クロウはバロックから現代音楽までカバーする英国出身のリリック・ソプラノ。パパゲーノのヒュー・モンタギュー・レンドールは英国王立音楽大学出身の若手バリトン。ザラストロ役のソロモン・ハワードは、以前サンフランシスコ・オペラのカーテンコールで共演のソプラノ歌手にプロポーズしたことで話題を呼んだバス歌手。出番が少ないのに強烈な印象を残す夜の女王には、今世界でこの役を最も歌っているコロラトゥーラ・ソプラノの一人、アメリカのキャスリン・ルイックが扮している。
指揮は、パリ生まれの指揮者マリー・ジャコ。バイエルン州立歌劇場にてベルリン・フィル首席指揮者・芸術監督を務めるキリル・ペトレンコのアシスタントとなり、現在はデンマーク王立歌劇場首席指揮者として活躍する若手の有望株だ。幼少期はテニスプレーヤーとしての活躍を期待されていたという彼女の颯爽とした指揮姿にも注目したい。

 台本のシカネーダーは、パミーナとパパゲーノに「誰もがこのような魔法の鈴を持っていたら、敵はいなくなり、みんなが仲良く暮らせる。友情のハーモニーが争いを解決するのです」と歌わせている。モーツァルト生誕270歳となる2026年。世界中の人々が願う、昔も今も変わらない切なるメッセージだ。

2026.06.24

『ジークフリート』見どころをご紹介します

コラム

石川了(ジャーナリスト/音楽・映画・ミュージカルナビゲーター)

2026年は、ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーの楽劇四部作『ニーベルングの指環』(以下、『指環』)がバイロイト祝祭劇場で全曲初演されてから150年。この節目の年にバイロイト音楽祭ではワーグナーのオペラ全10作品を上演する構想があったが、規模が大幅に縮小され、最終的に『さまよえるオランダ人』『リエンツィ』『パルジファル』そして『指環』の四部作にとどまった。音楽祭の開幕には、1872年バイロイト祝祭劇場定礎式でワーグナー自身が指揮したというベートーヴェンの『第九』が演奏される予定だ。

このメモリアルイヤーに英国ロイヤル・オペラでは、『指環』の三作目『ジークフリート』のニュープロダクションが上演された。アントニオ・パッパーノ指揮、バリー・コスキー演出で2023年にスタート。英国ロイヤル・オペラの『指環』としては19年ぶりの新制作となる。
『指環』は、無限の力を持つ黄金の指環を巡って、三世代にわたり天上と地上と地底で争奪戦を繰り広げる愛と憎しみと裏切りのドラマだ。四部作を通した上演時間はおよそ16時間。作曲に26年も費やしたワーグナー畢生の大作である。
コスキー版では、環境破壊後の世界のなかで、全裸の老婆(俳優が演じる)として登場する母なる大地の神エルダが、神々と人間、ニーベルング族による指環の争奪戦を見守るという視点で描かれている。

この『ジークフリート』からは、いよいよ恐れを知らない怪力の英雄ジークフリートが登場する。
破損した父の形見の宝剣ノートゥングを鍛え上げ、竜に姿を変えた巨人族のファフナーを退治して指環を手に入れたジークフリートは、眠れるブリュンヒルデを接吻で目覚めさせ、2人は愛を知る。登場人物の数も少なく、ストーリーもシンプル。会話や問答のなかで、指環のいきさつやジークフリートの出自、ブリュンヒルデの眠りの理由といった過去の顛末が語られるので、前二作(『ラインの黄金』『ワルキューレ』)を観ていなくても、ジークフリートの立場や状況がわかりやすい。
また、前二作はジークフリートが生まれる前の話だが、三作目からはジークフリートとブリュンヒルデが主人公となり、四作目『神々の黄昏』に直接ストーリーが続いていく。その意味でも、『ジークフリート』は四部作の転換点といえるだろう。

ワーグナー自身による『指環』の台本は、実は『神々の黄昏』『ジークフリート』『ワルキューレ』『ラインの黄金』の順で書かれていった。つまり、ワーグナーは全体の結末から逆算して話の流れをさかのぼり歌詞を紡いだのだ。
20世紀後半に“ジークフリート歌い”として一世を風靡したドイツのテノール歌手、ルネ・コロは、筆者がインタビューした際に、「ワーグナーは歌詞が最も重要で、歌詞から音楽が生まれたと言っていい」と語っていた。聖書からの引用も多く散りばめられているそうで、そのようなレトリックや言葉の裏に隠された意味を知らないと、ワーグナー作品の人物像は迫れないのだと言う。偉大なレジェンドは、台本作家としてのワーグナーに光を当てていたことが印象的であった。
一方、『指環』の作曲は、『ラインの黄金』から『神々の黄昏』へと順番通りに行われたが、『ジークフリート』の第二幕と第三幕の間にはおよそ12年の中断がある。その間に、ワーグナーは『トリスタンとイゾルデ』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』という二つの楽劇を完成させた。オーケストラの色彩感や音の分厚さなど、第二幕までの音楽と第三幕で印象が異なるのはそのためである。音楽的な意味でもやはり『ジークフリート』は転換点なのだ。
ちなみに、ワーグナーはリストの娘コジマとの間に生まれた長男にジークフリートと名付けた。コジマの誕生日には『ジークフリート牧歌』も作曲している(その旋律が第三幕に登場する)。ワーグナーにとってジークフリートは特別な存在だったのだろう。

実は、『英国ロイヤル・バレエ&オペラ in シネマ 2025/26』の『ジークフリート』の映像を、本原稿を書くために事前にPCで観ていたのだが、試写会で改めて鑑賞すると、前二作に比べて圧倒的に面白く、『ロビン・フッドの冒険』『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』のようなハリウッド冒険映画さながらのスリルやワクワク感が半端なかったのだ。
オーケストラや歌い手たちのリアルなサウンドも魅力で、アンドレアス・シャーガー(ジークフリート)の若々しくエネルギッシュな歌声と、円熟したピーター・ホーレ(ミーメ)のキャラクターヴォイスはとにかく圧巻。指揮棒を持たないパッパーノに導かれたオーケストラも怒涛の渦巻きのような迫力だった。
コメディあり、ファイトシーンあり、スペクタクルあり、フィルム・ノワールあり、ラブシーンあり。意表を突く仕掛けや舞台美術もあって、アッという間の5時間半だ。

パッパーノは、「『指環』をひとつの交響曲として考えると、『ワルキューレ』の後にワーグナーが必要としたのは、(リズムで機動力をつける)スケルツォだった」と分析する。そういえば、現在ベルリン州立歌劇場音楽総監督(カペルマイスター)を務めるクリスティアン・ティーレマンも、『指環』を作曲家に例えて、『ラインの黄金』はモーツァルト、『ワルキューレ』はベートーヴェン、『ジークフリート』はウェーバー、『神々の黄昏』はブルックナーと語っていた。いずれの言説も言い得て妙。『指環』は今なお名匠たちを魅了し、私たちを感動させてくれるのだ。

2026.06.12

『魔笛』タイムテーブルのご案内

項目 時間
■解説+インタビュー 11分
■第1幕 66分
休憩 10分
■解説+インタビュー 12分
■第2幕、カーテンコール 92分
上映時間:3時間9分

2026.06.08

『ジークフリート』タイムテーブルのご案内

項目 時間
■解説+インタビュー 17分
■第1幕 81分
休憩 14分
■解説+インタビュー 16分
■第2幕 78分
休憩 17分
■解説+インタビュー 12分
■第3幕、カーテンコール 89分
上映時間:5時間24分

本編中に一部ノイズがございます。
公演撮影時に生じたものとなりますため、大変恐れ入りますがご了承頂けますと幸いです。

2026.06.05

上映劇場変更のご案内

英国ロイヤル・オペラ「ジークフリート」につきまして、
上映劇場の休館に伴い、下記の通り上映劇場を変更させていただきます。
何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

■上映作品
英国ロイヤル・オペラ「ジークフリート」

■対象上映期間
2026年6月26日(金)~7月2日(木)

■変更内容
TOHOシネマズ 日本橋 → TOHOシネマズ 日比谷

※その他の上映劇場に変更はございません。
※その他の演目の上映劇場に変更はございません。

2026.05.27

『ジゼル』見どころをご紹介します

コラム

森菜穂美(舞踊評論家)

ロマンティック・バレエの不朽の名作「ジゼル」、主演は高田茜

1841年にパリ・オペラ座で生まれて以来、『ジゼル』はロマンティック・バレエの最高峰の作品として世界中で上演され、名だたるバレリーナたちが名演を見せて数々の伝説を築き上げてきました。1幕の収穫期のドイツの牧歌的な農村を舞台にした悲劇のドラマ、2幕の精霊「ウィリ」が舞い踊る、月に照らされた幽玄で超自然的な墓場という二つの全く異なった世界の対比を描いている本作は、死をも超える愛と赦しを描いた不朽の名作として今も広く愛されています。

今年3月に公開されて人気を呼んだアニメ映画『パリに咲くエトワール』では冒頭に1910年代の横浜での『ジゼル』の上演を観てヒロインのフジコがバレエに魅せられます。そしてもう一人のヒロイン千鶴はパリでバレリーナを目指して稽古に励み、ついにパリ・オペラ座の『ジゼル』のコール・ド・バレエ(群舞)、ウィリの一人として舞台に立って夢をかなえる場面で幕となりました。このように『ジゼル』はバレエそのものを象徴する作品として知られています。

今回ジゼル役を演じた高田茜は、その見事な技術と表現力で絶賛を浴びました。映画館の大スクリーンで、この一世一代と言える彼女の名演をぜひ堪能してください。

「これは、私がこれまでに見た中で最も完成度の高い高田茜の演技だった。彼女の踊りが完璧なテクニックと音楽性によって特徴づけられていることは言うまでもないが、彼女はさらに、説得力のあるキャラクターを創り上げた。高田のジゼルは真に恋に落ちていることを示し、第1幕の純真な少女が抱える脆さ、裏切り、そして底知れぬ絶望を露わにした。しかし、高田が真に最高の輝きを放ったのは、第2幕で亡霊のようなウィリとなり、欺いた恋人を死から救おうと奮闘する場面だった。アルブレヒトを許し、救おうとするジゼルの心意気は、高田とボールの深く心に響く墓前のデュエットにおいて、最も鮮やかに表現されていた」(Seen and Heard Internationalより)

 

「ジゼル」誕生

『ジゼル』の超自然的な力は、19世紀のロマン主義の中でもバレエにおいては最高の例を作り上げました。物語の「愛、裏切りと赦し」というテーマとはハインリヒ・ハイネの『ドイツ論』とヴィクトル・ユゴーの『東方詩集』の中の「亡霊」という詩に着想を得ています。このバレエ作品の幽玄な美しさは、2幕のウィリたちの踊りの中でも、彼女たちがジゼルの墓の周りに集まる場面で最高潮を迎えています。ここはカンパニーのコール・ド・バレエがきらめくような高度な技術を見せる場面です。

フランスの詩人・小説家・劇作家テオフィル・ゴーティエはハインリヒ・ハイネの『ドイツ論』を読んだ後、バレエ作品を創作する意欲に駆られました。当時パリにおいては超自然的なテーマが流行していました。ジャコモ・マイアベーアのオペラ『悪魔のロベール』(1831)の中の「死んだ尼僧たちの踊り」という短いバレエや、ダンサーたちが透き通るような白い衣をまとい、月を思わせる淡い光に照らされていた『ラ・シルフィード』(1832)のヒットもありました。バレエのテクニックの進化、トウシューズの技術によって、ダンサーたちはまるで幽霊のように見えました。霧に包まれた森でシフォンをまとって浮かび上がる精霊たち、それがウィリです。『ドイツ論』に登場するウィリたちについて読んで、ゴーティエはヴィクトル・ユゴーの詩「幽霊」の中の物語をこれと結び付けたいと思ったのです。この詩では、踊りが大好きで、のちに舞踏会で踊り狂って疲れ果ててしまい死んでしまう娘の物語が語られています。この二つのアイディアを、筋の通った物語にするために、ゴーティエは、バレエの台本執筆の経験が豊富なジュール=アンリ・ヴェルノワ・ド・サン=ジョルジュの助けを借りました。サン=ジョルジュはゴーティエのアイディアを洗練させて、わずか3日で台本を書き上げました。

彼らは振付家ジュール・ペローにこの台本を提案しました。ペローのミューズで恋人はパリ・オペラ座バレエの新星カルロッタ・グリジ。ペローはパリの観客にグリジの才能を見せるにはこの作品がぴったりだと思ったそうです。ペローはこの物語を作曲家のアドルフ・アダンに持って行き、アダンはすぐさまこのバレエ作品のために作曲することに同意しました。ゴーティエ、サン=ジョルジュ、ペローとアダンは後ほど、パリ・オペラ座バレエの芸術監督にこのバレエ作品を上演させることに成功しました。

「ジゼル」は1841年6月28日にサル・ル・ペルティエで初演されて絶賛を浴びました。グリジがジゼル役を演じ、リュシアン・プティパ(マリウス・プティパの兄)がアルブレヒト、ジャン・コラーリがヒラリオンを演じました。

 

<言葉のないバレエで物語を伝えるマイム>

ジゼルが1841年に初めてパリ・オペラ座で上演されたときには「バレエ・パントマイム」と銘打たれました。バレエ・パントマイムは別名「バレエ・ダクシオン」と呼ばれた演劇の形式で、18世紀のフランスで生まれました。ほかの演劇の形とパントマイムを分けているのは、演者による身体の動き、ジェスチャーや表情によって物語を伝えることでした。ダンサーたちのマイムによって、このバレエの心を揺さぶる物語が浮かび上がります。ジゼルは薬指を指さして婚約していることを表現し、頭の上で手を回して踊りが大好きなことを伝えます。また胸の前に手を当ててアルブレヒトへの愛を語ります。ヒラリオンはジゼルを愛しているというマイムを行い、またロイス/アルブレヒトを信頼できないことを示し、そして彼の刀について説明しアルブレヒトが狩りの一行の貴族たちと関係していることを説明しています。

『ジゼル』における最も長いマイムは、ジゼルの母ベルタが、ウィリの伝説を語るところです。娘が踊っているが心臓が弱くて踊りに耐えられないことを心配したベルタは、彼女に踊るべきではないと踊りを止める。踊りすぎたら心臓が止まって死んでしまうと。ベルタは暗い森の空気を呼び起こし、村人たちみなにウィリの伝説、また月夜に照らされた精霊たちの森の中に迷い込んだ男たちを待ち受ける運命について語っています。このベルタのマイムは、今回のシネマの幕間の映像で、ベルタを演じるクリステン・マクナリーが場の空気を一変させる迫真の演技で見せてくれています。

ジゼルの「狂乱の場面」では振付とマイムのバランスが絶妙に配置されています。ここで1幕の祝祭的な雰囲気は崩れ去り、村は混乱に陥ります。ジゼルは恋人ロイスが実際にはアルブレヒト公爵なのに村人に偽装しており、バチルド姫と婚約していたことを知ると現実を受け入れられず自分にしか見えない幻を追いかけ、空想上の花で花占いをし、壊れそうな踊りの中で愛しあっていた日々を再現します。ジゼルは正気を失い、自死してしまう場面がこの作品の最初のクライマックスです。

 

<ピーター・ライト振付版の特徴―演劇性の重視>

英国バレエを代表する巨匠サー・ピーター・ライトによる演出版が今回上演される『ジゼル』で、すでに200回以上上演されています。ライトは1966年にジョン・クランコの依頼でシュツットガルト・バレエのために『ジゼル』を振り付け(ライトが初めて手掛けた全幕作品)、ケネス・マクミランの依頼により、ロイヤル・バレエ版を1985年に創作しました。今年100歳となるライト卿は、現在も健在で日々リハーサルに立ち会って指導をしているとのことで、時折カーテンコールにも登場しています。

ジゼルを含む登場人物たちは、嵐のような感情や想い―不信、恐怖、傷心、そして喪失を表現しています。ライト卿は、「ジゼル」を上演するときには、物語や登場人物に説得力があることが大事だと強調していました。ドラマティックに物語ることと真実味のある感情の見事なバランスが、ジゼル役を、ダンサーにとって最も挑戦しがいのある役柄にしていると語っています。特にロイヤル・バレエの優れたダンサーたちは、舞台俳優のようにドラマティックに物語を表現する才能を持ち合わせています。

 

<ジゼルの死―心臓が止まるのではなく、狂乱の末の自死という衝撃的な展開>

ピーター・ライト卿の演出では、ジゼルの死が他の版にみられるように失恋のショックによる狂乱で元々弱かった心臓が止まってしまうのではなく、アルブレヒトの剣で自ら胸を刺したことによる自死であるのが最大の特徴です。
彼女の内なる絶望が公の場に露呈し、その瞬間の衝撃は、それに先立つ精神崩壊の謎めいた様相によって、さらに増幅されていきます。この重要な「狂乱」の場面は何世代にもわたってバレリーナたちの試練の場となり、数多くの名演を生み出してきました。今回のシネマ上演では高田茜が細やかに、ジゼルがアルブレヒトとの幸せな日々を回想しながら正気を失い自らの命を絶ってしまう姿をリアルかつ痛ましく演じており、観客の涙を誘います。

 

<ライトモチーフを活用したアダンの音楽>

アドルフ・アダンは「ジゼル」のスコアを数週間で作曲しました。「ジュール・ペローとカルロッタ・グリジとはとても親しく、作品は私の書斎の中で成長しました」と彼は語っています。
彼が手掛けた音楽はライトモチーフ(登場人物と結び付けられた短く明確な主題)を使用しています。これらはバレエの動きを推進し、マイムの雰囲気も作り上げています。ジゼルには、彼女の無垢さと美しさをとらえる軽やかに弾む主題を与えました。ジゼルとアルブレヒトの場面では甘くハーモニーの感じられるモチーフを使用しますが、のちにアルブレヒトの裏切りが明らかになったときには、断片的で色彩も変化しています。狩りの場面では、遠くから聞こえてくるかのようなホルンの音色(『白鳥の湖』をはじめとする多くの作品でも用いられる典型的な音楽的表現)を用いたモチーフと、ウィリの悲劇的な物語と復讐への意思を彷彿とさせる不吉な予感を漂わせるモチーフが用いられています。

 

<日本が誇る世界のプリマ、高田茜のジゼルは見逃せない>

高田茜は、このジゼル役を2016年に演じてプリンシパルに昇進しました。2008年のローザンヌ国際バレエコンクールでも「ジゼルのヴァリエーション」を踊って入賞し、ロイヤル・バレエへの入団を果たしたこともあり、彼女にとっては特別な思い入れがある役です。快活で純朴な村娘から精霊への変化を見せる繊細な表現力、長くしなやかな手脚、強くアカデミックなテクニックの持ち主です。ジゼル役が似合う闇に溶けてしまうような儚さがあり、妖精さながらの跳躍の軽やかさもさることながら、心が壊れていく狂乱の場面のあまりの迫真性には、思わず涙してしまう圧巻の演技で心を奪われてしまいます。2幕では慈愛と崇高さも漂わせ、死してなおも一途にアルブレヒトを愛しぬく姿に胸打たれます。現代最高のジゼルというべき名演となりました。

アルブレヒト役は、貴公子役が似合う端正さと憂いがあり、ジゼルの体重を感じさせない高いリフト技術を持ち合わせて、ジゼルに対する感情の変化をドラマティックに表現する演劇性も持つマシュー・ボール。当初予定されていたスティーヴン・マックレーの降板により急遽の出演となりましたが、とても代役とは思えないほど高田との息もぴったりで、この二人ならではの練り上げられたドラマ性を感じさせる美しく感動的なパフォーマンスとなりました。精霊となって姿は見えていないジゼルの気配を感じながらの演技では、生死を超えて二人の魂が通い合うさまが深く胸を打ちます。ミルタの魔力で踊らされている場面の高く美しい跳躍にも魅せられます。

またジゼルに横恋慕してアルブレヒトの正体を暴き、ウィリたちに取り殺される森番のヒラリオンを熱く演じるのは、振付家としても活躍する実力派のヴァレンティノ・ズケッティ、ウィリの女王ミルタは長身で美貌を誇り支配力の強い新進気鋭のアネット・ブヴォリ。また1幕の収穫祭のペザントの踊りでは、6人のソリストの中に日本出身の若手、前田紗江、五十嵐大地がその直後の悲劇との対比を作り上げる多幸感に満ちた生き生きとした踊りで祝祭的な雰囲気を盛り上げています。もちろん、一糸乱れぬ恐ろしくも美しいウィリたちのコール・ド・バレエも大きな見どころです。

 

来日公演の予習にも、この珠玉の舞台をぜひ映画館で

高田茜をはじめとする世界トップダンサーたちが死をも超える愛と赦しの物語をドラマティックに演じる名作「ジゼル」。すべてのバレエファンに観ていただきたい、心を震わせていつまでも忘れがたい印象を残す珠玉の舞台です。なお、今年7月にはロイヤル・バレエ団の来日公演で『ジゼル』の上演が予定されています。予習としてこの至高の舞台を映画館で観ることで、来日公演もより一層楽しめることでしょう。

2026.05.18

『ジゼル』タイムテーブルのご案内

項目 時間
■解説+インタビュー 20分
■第1幕 57分
休憩 6分
■解説+インタビュー 19分
■第2幕、カーテンコール 59分
上映時間:2時間41分

本編中に一部ノイズがございます。
公演撮影時に生じたものとなりますため、大変恐れ入りますがご了承頂けますと幸いです。

2026.05.14

『ウルフ・ワークス』見どころをご紹介します

コラム

森菜穂美(舞踊評論家)

ヴァージニア・ウルフの3つの代表作が、現代の古典と呼ばれる斬新な傑作バレエ作品に

20世紀の最も偉大な小説家の一人と評価されるヴァージニア・ウルフの世界を3つの代表作を通して描いた『ウルフ・ワークス』。映画『めぐりあう時間たち』(ニコール・キッドマンがウルフ役を演じてアカデミー賞主演女優賞を受賞)でも描かれた彼女の人生と作品を、ロイヤル・バレエの常任振付家であるウェイン・マクレガーが2015年にロイヤル・バレエのために振り付けた本作は、現代バレエの世界を変えた革命的な最高傑作として熱狂的に評価されました。人間の脳の働きがどのようにダンスの動きへと伝わっていくかという科学技術的な研究を通じて、斬新な振付作品を生み出してきたマクレガーが生んだこの傑作はローレンス・オリヴィエ賞と英国舞踊批評家協会賞を受賞し、ロイヤル・バレエで3度にわたってリバイバルされただけでなく、ミラノ・スカラ座バレエやアメリカン・バレエ・シアター、ウィーン国立バレエなど世界を代表するバレエ団でも上演されています

20 世紀の最も画期的な作家の一人であるヴァージニア・ウルフは、文学の慣習に逆らい、彼女の衝撃的で痛烈な現実である豊かな内面世界を描写しました。伝統的な物語の語り口から離れた『ウルフ・ワークス』は、彼女の代表作『ダロウェイ夫人』、『オーランドー』、『波』からテーマをコラージュし、ウルフの「意識のながれ」という文体を呼び起こしました。

3つのパートがそれぞれ全く違った作風のダンス作品となっているのが本作のユニークなところです。『ダロウェイ夫人』をモチーフにした『I now, I then』は物語性の高い演出でナタリア・オシポワが演じる主人公と、彼女の記憶の中の人々を描きます。性転換しながら400年生きた青年貴族の数奇な運命を描いた『オーランドー』(ティルダ・スウィントン主演の映画でも知られています)に基づく『ビカミングス』は、マクレガーらしいハイスピードの近未来的な動きの連なりと照明がスタイリッシュで金子扶生らの活躍が見ものです。『波』をバレエ化した『火曜日』は、ウルフの遺書の朗読の後、ウルフ役のオシポワがウィリアム・ブレイスウェルとのデュエットから波のような群舞に融合し、やがて死を迎えますが、詩的で美しい余韻を残します。本作のために委嘱されたマックス・リヒターによるドラマティックな旋律とサウンドスケープも忘れがたい印象を残します。

 

<傑作の誕生は、他ジャンルのトップクリエイターとのコラボレーションによるもの>

「魅惑的な感情と過激な知的意図に満ちたバレエ」(ガーディアン紙)としての『ウルフ・ワークス』の絶大な力は、その芸術チームの強力な想像力にあります。振付家兼演出家であるウェイン・マクレガーは、コラボレーションの達人かつ革新者として名声を確立しています。伝統的な慣習に挑み、他メディアと融合し、多様な創造者たちと協働することで芸術の境界を押し広げてきました。

ロイヤル・バレエではコンテンポラリーダンスの振付家として初の常任振付家であるマクレガーは、『クローマ』『インフラ』などの中編作品で成功を収めてきましたが、『ウルフ・ワークス』は彼がロイヤル・バレエのために振り付けた初の全幕作品でした。2015年の初演では、元プリンシパルで伝説的なバレリーナのアレッサンドラ・フェリ(現ウィーン国立バレエ芸術監督)が、50代でのバレエ団への復帰を果たしてヴァージニア・ウルフ役を創作、初演して、舞踊批評家協会の最優秀女性ダンサー賞と、オリヴィエ賞のダンスにおける傑出した功績賞を受賞しました。

『ハムネット』で今年のアカデミー賞作曲賞にノミネートされ、同世代で最も影響力のある作曲家のマックス・リヒター、高名な建築事務所 Ciguë(シグー) と We Not I、照明デザイナーのルーシー・カーター、ロンドン・パラリンピック開会式の衣裳を担当した衣裳デザイナーのモリッツ・ユンゲ、映像デザイナーのラヴィ・ディープレス、メイクアップデザイナーのKABUKI、ドラマトゥルグのウズマ・ハミードという輝かしいチームをマクレガーは率いて、現代バレエの最高傑作を生みだしました。

 

<マックス・リヒターが本作のために作曲した圧巻のスコア>

『ウルフ・ワークス』のためにマクレガーは著名な作曲家マックス・リヒターに新しいスコアを委嘱しました。リヒターは、マクレガーと長年にわたってコラボレーションを行ってきており、ともにバレエ作品『インフラ』やリヒターの室内楽オペラ『Sum』を創作しています。またリヒターとマクレガーは、もう一人の著名な女性作家マーガレット・アトウッドの33つの作品に基づく終末後の世界を描くバレエ『MaddAddam』(カナダ国立バレエとの共同制作で、ロイヤル・バレエでも2024年に上演)でコラボレーションを行いました。

『ウルフ・ワークス』のためにリヒターはオーケストラと電子音響を融合させ、魅惑的で絶え間なく展開する音楽素材とスリリングなサラウンドサウンドの間を行き来する楽曲を創り出しました。リヒターはウルフの手紙、日記、エッセイの断片を音楽に織り込み、小説家の声を捉えています。

 

<ウルフの「意識のながれ」手法をバレエ作品に>

ドラマトゥルグのウズマ・ハミードは、本作の創作にあたって公演プログラムに以下のことを記述しています。
「ウルフ自身がダンスに魅了され、その言語の要素を自らの創作プロセスに取り込み、脳だけでなく感情と身体に根ざした文章を生み出したこと。さらに彼女の小説は生活の表層的な詳細から、心の中で絶え間なく展開される豊かな内面の物語へと焦点を移しています。彼女は私たちを、できごとが時系列ではなく主題的に連なり、感情と感覚の織り成す世界が、もろい物体の世界よりも濃密に感じられる世界へと没入させる。これらすべてが、ダンスの自然な領域と見なせるでしょう。」

ウルフが自身のエッセイ『職人の技術(クラフツマンシップ)』を朗読した唯一の現存する音声記録が、バレエの冒頭で楽曲内の語り部セクションの一つとして使用されています。女優のジリアン・アンダーソンが「世界で最も美しい遺書」として知られているウルフの遺書を朗読し、英国演劇界を代表する偉大な女優マギー・スミスがウルフの文章の一節説を朗読する音声も使用されています。

このようにして、ヴァージニア・ウルフの高度に洗練された世界を再現したバレエが誕生しました。

 

<ヴァージニア・ウルフの世界を体現する、ロイヤル・バレエのスターダンサーたち>

今回のシネマでは、第1部『ダロウェイ夫人』パートでアレッサンドラ・フェリが演じた、ウルフの分身でもあるクラリッサ役を、現代最高のバレリーナであるナタリア・オシポワが演じ、深みのある演技と共にマクレガー特有の複雑な動きを劇的に演じています。クラリッサの少女時代は前田紗江が生き生きと演じ、同性の恋人サリーを演じるレティシア・ディアスとの情熱的なキスシーンが印象的です。クラリッサの過去の恋人ピーターをウィリアム・ブレイスウェル、クラリッサの夫リチャードを来シーズンよりプリンシパルとしてロイヤル・バレエに入団する話題の新スター、パトリシオ・レーヴェが演じます。戦争のトラウマに苦しむ兵士セプティマスはマルセリーノ・サンベが熱演。上官でセプティマスとのデュエットを踊るエヴァンス役をマルコ・マシャーリ、そしてセプティマスの妻レツィアを高田茜が繊細に演じています。

第2部の時代とジェンダーを乗り越えて400年生きた美しき青年貴族を描いた『オーランドー』にインスパイアされた現代的でスタイリッシュな『ビカミングス』では、アクリ瑠嘉、金子扶生、クレア・カルヴァート、レティシア・ディアス、前田紗江、高田茜、中尾太亮、マルセリーノ・サンベらがSF映画の中にいるようなにレーザー光線の中で縦横無尽に時空を超えて、切れ味鋭く踊ります。中心的なパートは、金子扶生がサンベと共にきらびやかでダイナミックな超絶技巧を披露し、鮮烈な印象を残します。

そして第3部『波』に基づく『火曜日』では、名女優マギー・スミスの朗読から始まり、ジリアン・アンダーソンによるウルフのエモーショナルな遺書の朗読に続き、ウルフ役のナタリア・オシポワが子役を含む群舞のダンサーたちによって描かれる波や夫役ウィリアム・ブレイスウェルの腕の中で揺れるように踊り入水自殺による最期の時を迎えます。
プリンシパルが5人出演し、さらに日本人ダンサーも多数活躍するなど、豪華キャストも見どころの一つです。

「何よりも、このバレエを観ることをウルフの作品を読むような感覚に近づけたかったのです。彼女の世界の輝き、響き、切なさと彼女のビジョンの現代性を伝えるために」というハミッド[m1.1]の言葉通り、ヴァージニア・ウルフの作品世界を、ロイヤル・バレエのトップスターたちによる現代バレエの最高傑作で堪能する『ウルフ・ワークス』。文学と最先端のバレエが融合した総合芸術を、マックス・リヒターの音楽と共にスクリーンで味わってください。

2026.04.20

『ウルフ・ワークス』タイムテーブルのご案内

項目 時間
■解説+インタビュー 19分
■第1幕 34分
休憩 15分
■解説+インタビュー 15分
■第2幕 39分
休憩 13分
■解説+インタビュー 14分
■第3幕、カーテンコール 34分
上映時間:3時間3分

本編中に一部ノイズがございます。
公演撮影時に生じたものとなりますため、大変恐れ入りますがご了承頂けますと幸いです。