コラム
ワーグナーの『ニーベルングの指環』
19世紀の作曲家リヒャルト・ワーグナーの楽劇四部作『ニーベルングの指環』(『ラインの黄金』『ワルキューレ』『ジークフリート』『神々の黄昏』)は、世界を支配する力を持った黄金の指環を巡り、神々と人間、地底のニーベルング族が交錯する愛と欲望と裏切りのドラマである。ワーグナー自身による台本で、上演時間は全四作を通しておよそ16時間。全編の完成に26年という長い歳月を要した大作だ。
世界を支配する力を持った指環(輪)といえば、J.R.R.トールキンの長編小説『指輪物語』を思い起こす方も多いだろう。『指輪物語』は指輪を捨てに行く話、『ニーベルングの指環』は指環を手に入れる話だが、いずれも指環(輪)は争いを引き起こし、その呪いと力に囚われた人は破滅する。そして、いずれも最後は、傷ついた主人公が自らの手で指環(輪)の呪いを葬るのだ。ストーリーは異なるが、音楽と文学による二つの指環(輪)の物語は、今なお永遠の芸術作品として燦然と輝いている。
『ワルキューレ』の見どころ
『ワルキューレ』は、楽劇四部作の二作目。神々の長ヴォータンが人間女性に産ませた双子の兄妹ジークムントとジークリンデの禁断の恋と、彼らを見殺しにしなければならないヴォータンの苦悩、そしてヴォータンと大地の母神エルダの間に産まれたワルキューレ(女戦士)の一人ブリュンヒルデが、父の本心を汲んで兄妹を助けようとしたことで、神々の世界から追放される顛末を描く。ちなみに、原題の“Die Walküre” は定冠詞付きの単数形で、これはブリュンヒルデのことを示している。
初めて観る方はもちろん、前作『ラインの黄金』を観ていなくても全く問題なく楽しめるのが『ワルキューレ』の魅力だ。若者たちの愛が高らかに謳われ、不倫を重ねる夫と正妻の確執に背筋が凍り、父と最愛の息子の死別、父と最愛の娘の永遠の別れに涙する。内容がとてもヒューマンで、展開もスムーズ。物語を彩る音楽も、ポピュラーな「ワルキューレの騎行」をはじめ、最高にドラマティックで感動的だ。
複雑な物語をわかりやすくするライトモティーフ
ワーグナーは、ライトモティーフという手法を使って音楽ドラマを描いた。これは、人物のキャラクターや感情、状況を象徴する短いフレーズのことで、動機とも呼ばれる。
『ワルキューレ』では、「愛の動機」「剣の動機」「運命の動機」「愛の救済の動機」「ジークフリートの動機」といった多くのライトモティーフがさまざまな場面で物語を補完し、観るものに深い理解と感情移入を促す。例えば、ジークリンデが自身の妊娠を知るとき、この作品には登場しないジークフリートの動機が流れ、「ああ、彼女はジークフリートを身ごもっている」と理解できるように、感動的に音楽が組み立てられているのだ。
もちろんそのような動機の知見がなくても、観ているうちに「あれ、どこかで聴いたことのある旋律」と気づき、それが何を意味するのかを不思議に理解できるようになるからご安心を。映画『スター・ウォーズ』シリーズで「ダースベーダーのテーマ」「フォースのテーマ」などが、物語をわかりやすくしているようなものだ。ちなみに、この映画シリーズでジョン・ウィリアムズは71ものライトモティーフを作曲したという。
さまざまな登場人物の過去現在未来の縦のつながりと、人間模様や人物相関など物語の背後にある横のつながりを音楽で暗示し、登場人物が多い複雑なストーリー展開をわかりやすくするライトモティーフ。ワーグナーが確立したとされるこのドラマ手法は、現代においても大きな影響を与えている。
パッパーノとコスキーのコンビによる新制作
英国ロイヤル・バレエ&オペラ(RBO)では2023年よりアントニオ・パッパーノ(指揮)とバリー・コスキー(演出)による『ニーベルングの指環』新制作がスタートした。
1959年生まれの英国出身のイタリア系指揮者パッパーノは、2002年からRBO史上最長の22年間にわたり音楽監督を務め、2025年5月にはRBO史上初の桂冠指揮者の称号を贈られた。彼の指揮は、歌手が歌いやすいテンポとオーケストラが歌手の邪魔をすることがないバランス感覚、音楽の力強い推進力が特徴。この『ワルキューレ』でも、冒頭の嵐の音楽からブリュンヒルデが炎に包まれるラストまで、緊張感が持続する音楽のドラマにスクリーンから目が離せない。
演出のコスキーは、1967年生まれのオーストラリア出身のユダヤ人で、現在最も多忙な演出家の一人。今回の演出は彼自身、テレビで見た故郷オーストラリアの山火事から着想を得たと言及しており、その世界観をベースに、環境が破壊された世紀末を大地の母神エルダ(ブリュンヒルデの母)の視点から描いている。湯気が噴き出る焼け焦げた木、焦げて炭になった死体など、コスキーらしい視覚要素もあるが、神々の話を家族の日常の風景としてさりげなく描写する、例えば、仕事から帰った夫と客人のディナーシーン(妻に対する夫のDVも垣間見える)、正妻に詰め寄られる不倫夫の居心地の悪さ、娘が大好きな父と父が大好きな娘の微笑ましい会話の場面など、演劇畑出身らしい読みの深さだ。
パッパーノとコスキーが探した注目のキャスト
パッパーノとコスキーの二人は、慎重に時間をかけて、作品に合った歌手を探してきたという。ヴォータンにはシャープレスを演じたパリ・オペラ座 INシネマ2025『蝶々夫人』の公開も控えるクリストファー・モルトマン、ブリュンヒルデは2025年1月新国立劇場『さまよえるオランダ人』でゼンタを歌ったエリザベート・ストリッド、フリッカはバイロイト音楽祭でも活躍するベテランのメゾ・ソプラノ、マリーナ・プルデンスカヤ、ジークムントには抒情的ヘルデンテノールとして近年注目のフランス人テノール、スタニスラス・ド・バルベラク。そして、当公演で一番の評判を呼んだのが、ジークリンデを演じたウェールズ系ウクライナ人の新鋭ソプラノ、ナタリア・ロマニウ。本来のキャストであったリーゼ・ダヴィッドセンが妊娠により降板。代役としてロマニウが抜擢され、初役のジークリンデを2ヶ月で習得したそうだ。オペラはこのようなスター誕生のドラマが生まれるから、やはりRBOシネマシーズンは常にチェックしておきたい。
しかしながら、ミンナという妻がいながら、ヴェーゼンドンク夫人と不倫関係になり、その後、自分の作品(『トリスタンとイゾルデ』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』)を初演している指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻コジマ(リストの娘)を略奪し、妻にしてしまうワーグナーは、自分の姿をヴォータンに重ねていたのか…。